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仙台大学通信教育指導室メールマガジン 第90号

2024.12.12 THU

みんなが、それぞれの成長を願い、一所懸命生きている教室

通信教育指導室から、こんにちは。
今回は、大村はま先生の珠玉の名言をいくつか紹介します。
一人一人が生き生きと学ぶ教室をつくるために何が必要か、ともに考えましょう。


教室は学習そのものをやらせてしまう場所


教室は、「やってごらん」という場所ではないからです。それを自然にやらせてしまう場所だからです。
「もっとよく読んでみなさい」「詳しく読んでごらん」
そういう場所ではなくて、ついつい詳しく読んでいた-そういう自覚もないぐらいに-詳しく読む必要があるのでしたら、その場で詳しく読むという経験そのものをさせてしまうところです。
「読みかたが粗い、まだ詳しく読んでないではないか」そういうことをいう場所ではない。それでは特に魅力を生まず、ありがたい場所でもない。それは、おとなに向かって言うことであって、子どもというのは、これからどんなに成長するかわからないのですが、いまは子どもです。ですから、学習そのものを、やらせてしまわないとだめだと思います。
「やってごらん」「できたか」これはもう禁句だと思います。やらせてしまわないとすれば、教師の方が、怠慢だった、教師のいたかいがなかったことになります。



『新編 教えるということ』大村はま著(ちくま学芸文庫 1996)p.207 一部編集


教室では使いたくないことば … 「わかりましたか」

「わかりましたか」と聞くときの教師自身が、子どもにほんとうの真剣な答えを期待していないという自分への甘さがあるのではないかと思います。
「何もわかりません」と言われたら、どういう顔をするつもりでしょう。
さぞびっくりするでしょう。
それくらい自分はあまったるいのだということを考えるわけです。
ですから私は「わかりましたか」ということばを口から出すまいと思って、指をしばっていたことがあります。
…そうすれば少しは言わなくなると思って、鍛えていた日々もあります。


『新編 教えるということ』大村はま著(ちくま学芸文庫 1996)「教師の仕事」から 一部編集

ほかのことばで繰り返す

一度でわかる話 … ほんとうは、一度で言っていないのです。
ほかのことばで繰り返しています。
二度言ったとは気が付かれないように。
一年の初めなどは、だいたい、二度か三度は言っています。
きびしく、一ぺんで聞くようにと言いながらこうした心づかいが必要です。
それがありませんと、なんといってもまだいたいけな中学一年生ですから、あまりに緊張したり、聞き損じのある自分が寂しくなったりします。


『大村はまの国語教室2』

精いっぱいの世界へ

教室はとにかく、一段一段と力がついていくのでないと、教室と言わないのではないかと私は思います。
ほかの生活のどの場所にも、そういう所はありません。
楽しく暮らす場所は、いくらでもありますけれども、ぐんぐんと学力がついていく場所、それを専門に目ざしている場所が、教室なのです。
いかに楽しくても、そういう姿が見られないのは、教室ではない。
あるときはもう、つらくって、力のかぎり、ぎりぎりのところでやっている、力の伸びるのは、そういうぎりぎりまでやっているときと、私は思います。


『新編 教えるということ』大村はま著(ちくま学芸文庫 1996)p.163、 p.195 一部編集

やってできないこともある

子どもたちに、安易に、だれでもやれる、やればやれるといいたくない。
やってもできないことがある
― それも、かなりあることを、ひしと胸にして、やっても、やってもできない悲しみを越えて、なお、やってやって、やまない人にしたいと思う。


『大村はまの国語教室2』

持っている「力」というのは,使い切った時に伸びるもの

子どものことというより、自分の身を振り返って考えたのですが、持っている「力」というのは、使い切った時に伸びるもののようです。
大してない力でも、ありったけ使うと、また、どこからか湧いてくるのではないか、誰かが哀れに思って賜わるのではないかと私は思いますが、使い切らないことには湧いてはこないようです。
ですから、少ししか使わないと何も伸びてこない、生まれてこないという気がします。
かわいそうになるほど、持っている力をみな使って途方にくれるようにすることが、次の力を得るもとになるようです。


『新編 教室をいきいきと1』大村はま著(ちくま学芸文庫 1994)p.023 一部編集


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