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仙台大学通信教育指導室メールマガジン 第89号

2024.12.05 THU

通信教育指導室から、こんにちは。
「大村はま記念国語教育の会」の事務局長を務める苅谷夏子さんは、大村はま先生の教え子の一人です。
彼女がまとめた『優劣のかなたに-大村はま60のことば』から、子どもの思いを全身で受け止めるはま先生の凛とした姿と教室のはりつめた空気感が伝わってくるエピソードを紹介します。


子どもたちが参るような


女の先生だと思ってばかにして騒ぐというようなとき……「静かにしなさい」とか「何しているんですか」とか、そういうことを言ったのではだいたいだめなんです。そういう子どもはもう知らぬ顔をしておくのがいちばんいいのです。

そういうときには、クラスには必ずしっかりした子どもたちがおりますから、そのしっかりとした、それも男の子たちに着目して、その子たちが参るような、ほんとうのいい授業をすることなんです。

そうしますと、その子たちが満足を覚えます。そうなるとその子たちが必ず騒ぐ子どもたちを静めてくれるものなのです。なにを言ってくれるというのでなく、雰囲気で騒げなくしてしまうといったらいいかもしれません。

騒ぐほうをいっしょうけんめいしかって、ヒステリーみたいな声を出してやりますと、そのしっかりとした男の子たちが、つまらなくなり、……そっぽを向いてしまうわけです。

『国語教室の実際』


教室の生きた呼吸がわかるようなことばだ。なるほど、と思う。

しかし、である。なにゆえに「男の子」限定か、と、元女の子であった私は、思うのだ。なぜ「そのしっかりとした、それも男の子たち」なんだろうか。なんとなく悔しい。大村が亡くなるまで掌中の珠のように大事にしてきた教室の物語の主人公は、なぜか男の子が多い。

文法は単元学習には向かない、という常識があるなか、一念発起して、工夫に工夫を重ね、十分に練り上げた単元を作った。大村が夢中になってリードして、文法でもこんなに生き生きとした学習ができるのだと満足して終えたとき、「ストレートに教えてください」と要望してきた男の子。

敬老の日に、50歳を目前に、老いを感じ始めた大村が「今日は老人の私を悲しませるようなことをしてはダメですよ」と、半分いたずらのような気持ちで言ったとき、最前列から大きな声で「老人って思ってなあいもん」とすぐさま返した男の子。

そんな話はまだまだある。どの逸話にも、大村をはっとさせることばを持った、真っ直ぐなまなざしを光らせた男の子がいる。

大村は、自分の考えの幅を悠然と裏切るような男の子を、ほんとうに、おもしろく、楽しみに見ていた。

そうだ、女の子が主人公の話もないわけではない。退職前年のこと。「私の本」という書き込み式の文集を大村が作った。思わず書く気を誘う工夫がどのページにもほどこされていて、さまざまなテーマの着眼の文章が自然に並ぶようにできている。大切な注意などは、生徒が自分で見ればちゃんとわかるように、要所にさりげなく示されている。ああ、それなのに!新しい取組がうれしくて、気持ちが弾み、ついつい長話をして、言わなくてもわかるはずの注意や説明を加えてしまった。で、ようやく話が終わってこれでやっと個人作業に入れる、というときに、ある女の子が言ったのが、

「ああ、うるさかった!」。

勇敢な女の子もちゃんといて、大村のコレクションに花を添えた。


気がすまないのです


生徒というものは、先生を試すものです。先生をいびって、快感をおぼえたいという欲望があってやったことなのですから、こっちが多少傷つかないと気がすまないのです。……

ちょっと傷ついてやってください。具体的には、ちょっと見るといいのです。こわい顔はしないで、ちょっと見るんです。多少傷ついたということを、ちょっと知らせて、あとは知らん顔すればいいのです、それ以上のることはありません。

学習記録をまとめるのは、生徒にとっては大変だったのでしょう。カタカナで「オオムラセンセイシネ」と書いてあったことがあります。

『教室に魅力を』


事実、大村は、いい授業をすることで、子どもをしっかりとつかんできた。あの、大まじめな、身を惜しまない、一心な姿を見ると、子どもでも、気持ちが少し静まってくるような感じがした。そういう感性は、「子どもでも」ではなくて、「子どもだからこそ」なのかもしれない。身を粉にして自分たちを教えようとする人、空虚に命令するのでなく、手をひいて高いところに連れていこうとする人、たてまえでものを言わず、心からの声を出す人、考える面白さ、わかる面白さを、チラッとでもほんとうに見させてくれる人。そういう人の前で、荒れる気持ちや不満な気持ちが少し凪ぐ。

万引きが横行した中学で、大村は担任として一度も警察に呼ばれることがなかった。「おはまさんがポリ公にぺこぺこ頭を下げるのは見たくねえよな」と、やんちゃ仲間が申し合わせ、卒業まで万引きを控えたという。これは彼らの義侠心である。その義侠心を呼んだのは、大村の教える姿だった。

冒頭のことばは、それでもいろいろなことがあったのだなあ、と感じさせる。「先生をいびって、快感をおぼえたいという欲望があってやったことなのですから、こっちが多少傷つかないと、気がすまないのです」という言い方に、おとなとしての少々のことでは慌てない落ち着きと覚悟が感じられるし、子どもの気持ちへの理解も見てとることができる。シネなんて書かれれば、もちろん不愉快な気持ちも寂しい気持ちもとっさには抑えられないわけだが、それを自分の中で処理して、感情的にダイレクトに子どもに返すことはしない。人と人として向かい合っているのだから、一方が傷つけたら、一方は傷つく。それが不自然に隠されたらかえってよくない。コントロールした球を投げ返すようにして、「シネ」ということばに読みましたよと「✔」印をつけて「多少傷ついたということを、ちょっと知らせて」というのである。



『優劣のかなたに-大村はま60のことば』苅谷夏子著(筑摩書房2007)一部編集

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