仙台大学通信教育指導室メールマガジン 第74号
2024.08.22 THU
通信教育指導室から、こんにちは。
東日本大震災発災から約1年間、仙台大学の学生は足繁く女川町に通い、被災者の健康づくり支援や子どもたちの学習支援に尽力しました。
その過程で関わりのあった女川第一中学校の生徒たちが、様々な困難や葛藤を乗り越えながら、家庭や学校で過ごした日々のできごとや思いを、五七五や作文に託しました。
見上げれば ガレキの上に こいのぼり 3年 原 泉美
逢いたくて でも会えなくて 逢いたくて 3年 佐藤あかり
ただいまと 聞きたい声が 聞こえない 3年 木村 朱里
空の上 見てくれたかな 中総体 3年 鈴木 友理
戻ってこい 秋刀魚の背中に のってこい 3年 阿部 碧仁
うらんでも うらみきれない 青い海 3年 星澤 岬
止まってた 女川の時間 動き出す 2年 千葉はるな
そばにいる 仲間がずっと そばにいる 1年 阿部 美紅
私の挑戦 女川町立女川第一中学校 3年1組 三浦那美
私はずっと迷っていました。駅伝の練習に参加するかどうか。
「駅伝は自分への挑戦」
私はそう思っています。
過去2年間、試走のメンバーには選ばれたものの、本番で走ることはできませんでした。だから今年こそはという思いはありました。
でも、春の大会でけがをした左足首が不安でした。
さらに今年は昨年までと違い、1校から1チームしか出場できません。今の自分にあの炎天下の苦しい練習をやり抜いて、選手になれるだろうか、自信が持てずにいました。
私の姉は3月11日の東日本大震災で亡くなりました。まだ17歳でした。
卒業式の準備中に突然起きた大きな揺れ、そして大津波。女川の町は何もかも流されてしまいました。
その夜、総合体育館に避難していた私に、届いた知らせはあまりにも悲しいものでした。
前の夜「おやすみ」と言ったのが最後の会話でした。他にきょうだいのない私は一人っ子になってしまいました。
中学校でテニス部に入ったのも姉の影響です。最後の中総体は応援に来る約束でした。しかし、その約束は永遠にかなわないものになりました。一緒にテニスをすることも、今度やろう今度やろうと言って、結局できませんでした。
今になってああすればよかった、こう話せばよかったと後悔することばかりです。姉はもういないのに「ただいま」と帰って来そうな気がします。
生きたくとも生きられなかった姉のことを思うと、やる前から諦めるわけにはいかないと、私は決意しました。駅伝大会に出て、天国の姉に見てもらおうと。
こうして今年も自分への挑戦が始まりました。毎朝、毎朝、繰り返される過酷なタイムトライアル。走っても走っても、思うようにタイムが伸びないという現実。足が痛むのに無理をして悪化させてしまい、悔しくて泣いた日もありました。
練習をリタイアして、声がけしていても、つらい気持ちは今走っている人にしか分からないのに、こんな私が「ファイト」の一言を本当にかけていいのかわからなくなりました。でも、そんなある日、3年間一緒に駅伝に参加していた一人が、何気なくつぶやきました。
「那美が駅伝やるって言ってくれて嬉しかった」
自分が頑張ることが、誰かの役に立っていたんだと知り、大会に出て結果を残すことだけが目標ではないと分かりました。みんなが走っている。仲間であり、ライバルであるみんなが走っている。姉に見てもらいたいのは、そんな仲間と一緒に頑張っている自分だったんだ。最後の試走の時は自分にとっての本番だと思い、必死で襷をつなぎました。
大会当日は選手のサポートと応援に回りました。私は自分に与えられた役割を全力で果たそうと思いました。辛い練習を一緒に頑張ってきた仲間たち。大会では5人しか走れなかったけど、みんなの思いが詰まった1本の襷だったと思います。
今年の駅伝部は、男女ともに入賞を果たし、町の人たちもとても喜んでくれました。きっと姉も見ていてくれたはずです。
女川一中では「女川の元気は一中から」が今年の合い言葉です。
先日、文化祭実行委員長になりました。
私の挑戦はまだまだ続きます。
仙台大学が女川第一中学校へ贈った支援物資
【 ジャージ、Tシャツ、陸上ユニフォーム上下セット、雷管ピストル、バトン 】
『仙台大学Monthly Report Vol.62 / 2011 Jun.』に、次のような礼状が掲載されています。
皆様の支援のおかげで元気は取り戻しつつあります。授業も部活動も本格化してきました。 女川第一中学校 生徒一同
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三浦那美さんもこのユニフォームに袖を通し、駅伝部の仲間とともに汗を流したに違いありません。子どもたちに寄り添い背中を押した仙台大学の取組に、胸が熱くなります。