仙台大学通信教育指導室メールマガジン 第25号
2023.07.27 THU
通信教育指導室から、こんにちは。
前回紹介した「仏様の指」の逸話は、社会科授業名人の有田和正先生の心も深く捉えたようです。
「仏様の指」の逸話に触れながら、有田先生が説く「望ましい教師像」を二つ紹介しましょう。
教え上手は「待つ」と「押す」をくり返す
人を育てる教え上手は、多く教えることよりも、少なくしか教えないことに知恵を絞るもの。なぜならそれが、教える相手をより深く考えることにみちびくきっかけになるから、ということをこれまで説明してきました。
それを端的にあらわすおもしろいたとえ話があります。
※略 有田先生は「仏様」を「お釈迦さま」と言いかえながら、『仏様の指』の逸話を紹介しています。
教え上手というのは多かれ少なかれ、この「お釈迦さまの指」を実践しているものだと思います。
●「お釈迦さまの指」を意識する
教わる側に「教わっている」という自覚を持たせないまま、自力で考えるように仕向け、「自分ひとりの力で学んだ、理解した、成長した」と思わせることです。
そのためには、少なくしか教えないことが大切になってきます。花も水をやりすぎては根腐れしてしまいます。水は足りないくらいのほうが花もよく育つのです。けれども、私たちはつい水をやりすぎてしまう。
親切で熱心な人ほど、「なぜ、これがわからないんだ」とあれこれ口をはさみ、手を出す過剰な指導をしてしまう。自ら「はてな?」と疑問を抱き、好奇心を働かせるまえに、エサを口に運ぶように教えてしまう。
そして、その教えすぎが「また、先生が教えてくれるだろう」という頼る心を植えつけて、生徒の主体性を損ね、依存性を育ててしまうのです。
したがってお釈迦さまの指を実践するためには、答えをすぐには教えない忍耐力が必要になってきます。男が自力で荷車を引き出すまでお釈迦さまが待っていたように、相手が自ら考え出すまでがまんして待つ必要があるのです。
相手が考えはじめたら、しばらくだまって見守る。迷路に入ったり、堂々めぐりをはじめたら、少しだけヒントを与えて指で押してやる。ふたたび考え出したら、またしばらく見守る。この「待つ」と「押す」のくり返しが教える技術の肝であり、本当に人を育てることになるのです。
教えていることが教わっている側にいかにも見え見えなのは失格で、教える手、育てる指は相手に「見えない」のが理想です。
答えを隠したり、答えまでを遠回りさせたりしながら、大事なことほどすぐには教えない、最短距離では教えないことが肝要なのです。
手とり足とりの指導が、子どもにとってよい指導だろうか?
もう一つの「望ましい教師像」として、『学級づくりの教科書』という有田先生の著作から、小学3年生を清里合宿(3泊4日)に連れていったときのエピソードを紹介します。
有田先生らしい一味ちがった「仏様の指」の在り方、教師像が浮かび上がってきます。
朝6時、私の部屋へ、
「先生、起きてください。時間ですよ」
と、起こしにくる。
三日間とも、わたしは起こされた。
実は、「起こされたふり」をしたのである。ちゃんと目がさめているのに寝ているふりをしていたのである。
女の子なんか、「先生は、朝寝ぼうでしょうがないんだから。起こしてあげなくちゃ」なんて話している声が聞こえていた。
わたしは、笑いをこらえて寝たふりをしていた。
こうすることで、「先生にたよっていてはダメだ。自分たちでちゃんとやらなくちゃ」という気持ちを持たせるのである。
若い教師は、このようなわたしの態度をみて、「教育的良心が足りない」と言う。
子どものために尽くすことが大切で、子どもを起こし、そうじ・食事・入浴など、すべてリードしていくことが教師の役目であるという。
とにかく、子どもに尽くすことが「教育的良心」であるという。
本当にそうであろうか。
手とり足とりの指導が、子どもにとってよいのであろうか。
わたしは、子どものために尽くすということは、手とり足とりの指導ではなく、ひと言少ないことや、一手少ない指導だと考えている。
子ども一人ひとりを主体的に育てることが教育の目的なら、指導過剰はマイナス効果である。
一流の教師は、子どもが「自分一人の力で育ったのだ、成長したのだ」と思わせる教師である。
三流の教師は「教育的良心」とやらで、男に「オレが車を押してやったのだ。感謝しろ」と言う教師である。
「ひと言少ない指導」や「一手少ない指導」には、忍耐が必要である。
子どもが困っていると、すぐ手を出したくなる。そこをがまんすることが、本当に子どものためになるのである。
有田先生は「わざと『頼りない教師』を演じた」とおっしゃっています。
果たして、真相はいかに?