亘理町立荒浜中学校全校行事「50kmを歩く会」がスタートするまで
はじめに
1982年(昭和57年)4月、新任教員として亘理町立荒浜中学校に着任しました。それから3年間、先輩の先生方に教え導いていただきながら、授業に、行事に、部活動に無我夢中で取り組みました。教師としての基礎基本を学び、進むべき方向をおぼろげながらもつかむことができた、かけがえのない3年間でした。
新任1年目、荒浜中学校で初めての「30km歩き」が2学年行事として行われ、2年目は3年の担任として50kmを生徒とともに歩きました。そして、3年目も1年担任として40kmを歩き通しました。
1982年度に産声を上げた長距離をひたすら「歩く会」は、3年間の「助走期間」を経て、1985年度に「50kmを歩く会」として全校行事に格上げされました。その後続くこと平成13年度までの17回、さらに距離を少し短くして、「街道を歩く会」として継続されてきました。東日本大震災の惨禍にも負けることなく続けられ、昨年40回の節目を迎えました。
東日本大震災で甚大な被害を受けた荒浜地区の皆さんが、互いに力を合わせ再び立ち上がることができたのも、「50kmを歩く会」や「街道を歩く会」などで培ってきた地区の一体感、強い絆、そして誇りがあったからこそと、密かに思っているのは、私だけではないと思います。
「荒浜中学校が閉校になるかもしれない」という話を耳にし、「この行事の灯を消さないでほしい」「地区の誇りとして継続してほしい」という思いを強くしました。長年にわたって途切れることなく続く「街道を歩く会」の原点と秘密を探るこの試みは、その思いを形に表すための第一歩です。
本稿は、その試みの中間報告とも言うべきものです。ご一読いただければ幸いに存じます。
2025年8月 炎天夏
1 1982年(昭和57年)春
(1) 波乱の幕開け
1982年4月8日、荒浜中学校一学期始業式。
始業式に先立ち、新しく赴任した先生方の披露式が行われました。名取市立第一中学校から赴任した阿部哲男先生をはじめ、新たに転任してきた先生方に交じり、新任の浅川光喜先生と私の二人も、ステージに登壇しました。
粛々と進むはずの披露式ですが、眼前には真逆の光景が展開されます。フロアに集まった224名の全校生徒。列は乱れ、私語や笑い声が飛び交います。新しい先生が紹介される度に沸き上がる哄笑と大げさな拍手。
式の終了間際、フロア全体に阿部哲男先生の大音声が響き渡ります。
「これが新しく赴任してきた先生方を迎えるにふさわしい態度か?」
「荒中生としての誇りを持って行動しなさい!」
阿部先生の怒りを押し殺した一言一言が、生徒と職員の心に、小さなさざ波をつくり出します。
荒浜中学校の1982年度は、このようにしてスタートしました。中学校の荒れが全国的な広がりをみせる中、荒浜中学校も例外ではありませんでした。
(2) 教室内外で一進一退の攻防
新学期が始まり、今年こそ心機一転頑張ろうという気持ちや緊張感から、幾分落ち着いた授業風景が続きました。しかし、それもつかの間、校内には少しずつ泡立った雰囲気が広まっていきました。
シンナーを吸引し昼近くに登校してくる者、授業中にもかかわらず廊下にたむろして立ち騒ぐ者、罵声を挙げながら教室の入り口の戸を蹴り上げる者、それに呼応するように教室内を立ち歩き嬌声をあげる者、果ては給食のデザートをコンテナごと持ち去る者、教室内外で問題行動が毎日のように発生しました。
小規模校ながら、校内暴力、器物損壊、喫煙、シンナー、万引き、いじめ、授業崩壊などなど、まさに何でもありの状態でした。
(3) 学校再生に向け、職員一丸
このような厳しい状況の中、学校再生を目指す必死の取組が始まりました。
共感的理解を生徒指導の基底に据え、生徒一人一人に厳しくかつ温かく寄り添いながら、
① 分かる授業の創出と展開
② 各種行事の充実と達成感と成就感の感得
③ 部活動の活性化と生徒の自己実現の支援
の三本柱を基本に、日々実践に取り組みました。
学習指導、生徒指導、特別活動、保健安全指導を巡る方針が、職員会議の中でひとつひとつ厳しく吟味され、全職員の共通理解の下、少しずつ実践に移されていきました。
(4) 選手団と応援団が心ひとつに躍動
まず、目に見える形で表れたのは、体育的な行事での躍進でした。
郡中総体に先立って行われる亘理郡中学校陸上競技大会。郡内の中学生が一堂に会し、青春のエネルギーを傾け、熱戦が繰り広げられます。この年は、地元鳥の海グラウンドを会場に行われました。
荒浜中学校は、3年生の応援リーダーを中心に全校生徒が一丸となり、終日熱い応援を繰り広げました。競技の合間に行われる学校間のエール交換も、荒中の秩序だった応援に触発され、一段と力強くさわやかさなものになりました。
選手団の活躍も目覚ましく、3年の松橋君の男子三種競技の優勝をはじめ、多くの種目で県大会出場を勝ち取りました。三種競技の松橋君は全国大会にも出場しました。
郡中学校陸上競技大会における荒中生の一致団結した戦いは、選手団と応援団の間に熱い一体感と連帯感を生みだし、荒中生の心が一つまとまっていく大きな契機となりました。
加えて、郡中総体での野球部の優勝、県大会ベスト8進出を筆頭に、各部活動の躍進も著しく、荒中生は少しずつ自信と誇りを取り戻していきました。

校庭にて 左:浅川光喜先生、右:佐藤
(5) 初めての「30kmを歩く会」
そのような荒中再生の取組を根底で支える試みのひとつとして、2学年部による「30kmを歩く会」が企画されました。30kmという道のりを自分の足だけを頼りに歩き通すことを通して、「諦めない強い心を養ってほしい」「友だちと協力し合うことのすばらしさを味わってほしい」「達成感や感動を味わってほしい」、そして、「『やればできる』という自信と誇りを取り戻してほしい」等々、様々な願いを込めて実施されました。 私自身は1年副担任として、学年・学級づくりの一端を担う一方、全校7学級の英語授業の充実に必死でした。3学年分の英語科教科通信「Arahama Street」の発行と授業づくりに全力を傾注しており、学校全体の流れに周回遅れでついていくのがやっとという有り様でした。 なんとか一学期を乗り切り、夏休みがやってきました。「30kmを歩く会」が行われた日、行事のねらいや意義に無頓着なまま、せめて出迎えぐらいはしなくてはと学校で待機していました。30kmを歩き通した生徒たちを体育館で迎え入れた後、最後尾の生徒を励ますために鳥の海に向かいました。この年の「30kmを歩く会」と言えば、その田んぼ道を、遠く近く明滅しながら飛び交っていた蛍の光を思い出します。
2 1982年夏 2年 「30kmを歩く会」
荒浜中学校開校以来、初めて行われた2学年行事-「30kmを歩く会」。
遅くともその年の6月の職員会議には、議案として2学年主任の阿部哲男先生から提案されていたはずです。しかし、1年副担の私に当事者意識はなく、うわの空で聞いていたのでしょう。その提案があったことも、行事の詳細も、まったくと言っていいほど記憶に残っていないのです。
そこで、2024年3月に「NPO法人虹色たんぽぽ」から発行された『50kmを歩く会-伝統が生まれた日』(語り:浅川光喜、聞き書き:長嶺カオリ)を基に、行事の全容を振り返ってみましょう。
※ 「語り」を担当した浅川光喜氏は、「30kmを歩く会」のあった1982年に新任として荒浜中学校に赴任したあの浅川光喜先生です。
● 荒中の伝統が生まれた日
私(浅川光喜)が荒浜中学校に赴任した昭和57年、阿部哲男先生という先生も名取一中から荒浜中に転勤してきまして2学年主任兼2年1組担任。私は新任教師として2学年の副担任になりました。2年2組の担任は教職2年目の佐々木勝先生でした。
夏休みに、2クラスあった2年生の子どもたちを連れて何かできないかと、阿部哲男先生が名取一中でも行っていた「歩け歩け」のような行事を企画されたんですね。荒浜中の子どもたちにも単純に遠くまで行って、ただひたすら自分の足で荒中まで戻ってくるという、自分の足だけが頼りという行事を。それで、2学年部の3人で福島県の相馬まで下見に行ったんです。
この年は3年生が荒れていて、校内は1、2年生がビクビクして生活しているような雰囲気がありました。でも、2年生はエネルギーがいっぱいありますし、体を動かすことが好きだったので、この行事のことを提案すると、「30km歩くのって面白そう」って、みんな前向きにとらえてくれたんです。「面倒くさい、いやだ」なんていう子どもたちはほとんどいなかったですね。
実際に夏休みに歩いたのは常磐線の駒ヶ嶺駅から荒浜中学校までの約30kmでした。
当日は朝早く亘理駅に集合して、7時過ぎの電車に乗り、約30分で駒ヶ嶺駅に到着しました。駅前で準備運動をしてから歩き始め、夕方の4時か5時には荒浜に到着していたと思います。
阿部哲男先生は「30kmではまだそんなに子どもたちはこたえないんだ」って言っていました。本当は50kmやりたい気持ちもあったんでしょうが、まずは30kmくらいからと距離を抑えて始められたのだと思います。
はじまりは学年行事だったんです。しかも、年間計画にも入っていない行事。阿部哲男先生は本当にエネルギッシュで行動力がある先生だったので、それでスタートできたといってもいいでしょうね。
現在は「街道を歩く会」と呼んでいますが、令和6年度で40回を数える荒浜中学校の伝統的な行事「50kmを歩く会」が産声をあげたのは、そのときだったと思います。
全体を振り返ってこのように述べていた浅川先生ですが、初めて30kmを歩き通した自分自身の体験について、『阿部先生への便り』(2002)の中で、次のように述懐しています。
阿部先生との想い出はたくさんありますが、阿部先生といえば、今でも荒浜中学校で続いている「50kmを歩く会」のことです。
夏休みに2学年だけで何とか実施し、生徒たちに歩け歩けを体験させたいと、佐々木勝先生と3人で下見に出かけてコースを検討することから始めました。そして、夏休みに常磐線で福島県の駒ヶ嶺駅まで行き、30kmの歩け歩けを実行することができました。
私は生徒同様初めての体験でしたが、結構きつかったことと、PTA役員の岡崎さんや加藤さんが要所要所で待機して子どもたちをサポートしてくれたこと、昼食のときにいただいた缶ビールの味が忘れられません。
なんとおおらかな時代だったのでしょう。缶ビールといってもミニ缶だったようですが、夏休み中の自主的な行事ということで、許されたことだったのでしょう。そして、その当時から保護者の手厚いバックアップ体制があったことがうかがえます。
3 1982年(昭和57年)秋 荒中祭
(1) 自信と誇りを取り戻した荒中生
この年の4月から本格的にスタートした学校再生の取組は、①分かる授業の創造、②各種行事の充実、③部活動の活性化の3本柱に沿って、少しずつ成果をあげていきました。
とりわけ、亘理郡内の中学生と競い合った郡陸上や郡中総体での躍進は、全校生徒に「自分たちもやればできる」という自信を取り戻させる大きな転機となりました。
一学期も後半に入り、日を追うにつれ、前向きに頑張ろうとする生徒の数が増えていきました。加えて、生徒の取組を懸命に支え続けた教職員に対する視線も、次第に「不信」から「信頼」へと変化していきました。
(2) 創る喜び - 全力で取り組んだ荒中祭
季節は夏から秋へと移ろい、荒中最大の行事である「荒中祭」が近づいてきました。
阿部哲男先生の提案をベースに、
① 前 夜 祭
② 学級企画-演劇、教室展示、ジャンボ絵画
③ 後 夜 祭
の三つを柱に、全校生徒が「荒中祭」に創造的に取り組み、大成功を収めました。
成功の鍵を握っていたのは、次の三つです。
① 「一人一役」の基本コンセプト
② 直前2週間の準備期間
③ 生徒の主体性、創造性への全幅の信頼
生徒にとって最も感動的だったのは、開始時刻が5時過ぎに設定された後夜祭でした。
夜空を焦がすキャンプファイヤー、憧れの先輩と踊るフォークダンス、声を詰まらせながらこれまでの取組を振り返る実行委員の一言一言。そのすべてを胸に焼きつけ、最後に、全員で肩を組み合い、声を限りに荒中校歌を歌い上げました。「荒中祭」は大きな達成感と成就感に包まれながら、感動のフィナーレを迎えました。

後夜祭を終え、達成感と充実感に浸りながら
(3) 実を結び始めた学校再生の取組
「荒中祭」の成功を契機に、生徒たちの生活態度も一段と落ち着きを見せ始めました。
高校受験に向かう3年生、明るく伸び伸びと生活する1、2年生。荒浜中学校に、少しずつ「当たり前の学校生活」が戻りつつありました。
4 1983年(昭和58年)春
1983年度の校務分掌発表。3学年主任-阿部哲男先生、1組担任-佐藤俊隆、2組担任-佐々木勝先生。教師になって初めての担任が3年生、しかも、年齢が上というだけで1組担任。身が引き締まる思いがすると同時に、それ以上にきちんとやり通せるだろうかという不安な気持ちの方が大きかったように思います。
分かる英語の授業づくり、学級だより「3の1瓦版」を発行しながら進めた学級づくり、生徒会担当、卓球部顧問など、押し寄せるたくさんの仕事に圧し潰されそうになりながらも、阿部哲男先生や佐々木勝先生をはじめ多くの先生方に支えていただき、必死に取り組みました。
鎌倉・東京・日光を二泊三日で巡った修学旅行。選手団・応援団が一致団結、全力投球したものの、男子4位、女子6位と悔しい結果に終わった郡陸上。優勝1種目、準優勝4種目と荒中の底力を見せつけた郡中体連。3年生の子どもたちは、一つ一つの行事に全力で取り組みながら、荒浜中学校の最高学年としての力を着実に蓄えていきました。
5 1983年夏 50kmを歩く会
1983年8月2日、荒浜中学校で初めての「50kmを歩く会」が行われました。その詳細を確認すべく久しぶりに「3の1瓦版」を開いてみました。

1学期の終業式の日に発行した『3の1瓦版No.47』(1983年7月20日)には、「明日から夏休み、『やったー』と満足できる夏休みに」の見出しに続いて、次のように書かれていました。
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中学生としての最後の夏休み。高校入試前の最後の夏休み。それぞれに計画を立てているはず。健康で、楽しくて、よく勉強をして、とにかく「オレはこんなに努力したんだなぁ」とすがすがしく言えるような夏休みにしてください。 |
なんと、「50km」に関する記述はわずか2行しかありません。自分でもびっくり!これでは何もわかりません。
分かったこと言えば、夏休みの行事として、「校内水泳大会」と「廃品回収」が行われ、さらに、2度の模擬試験があったこと、プール開放も含めて、生徒は足しげく学校に通っていたということの二つです。昭和の空気感が伝わってきました。
そこで、『3学年だよりー防波堤』(阿部哲男先生発行)に当たってみました。ありました!
1983年7月18日発行の『3学年だよりー防波堤28号』に、【野外活動実施計画】として、「50km歩く会」の詳細が掲載されていました。

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1 目的 ・ 「歩く」という遠足の原点にかえり、歩くことの意味を知る。 ・ 阿武隈川の中流から下流流域の自然に親しむ。 ・ 遠距離を共に歩くという状況の中で、共に励まし合い、助け合う心を育てる。 ・ 団体行動を通じて、親交を一層深めると同時に、夏休みをより思い出多いものとする。 ・ 強い精神力を培い、二学期以降の生活へのエネルギーとする。 2 期日 1983年8月2日(火) 3 行先 福島県梁川町栗生 4 行程 荒浜中学校==バス==福島県梁川町栗生兜橋(かぶとばし) 栗生兜橋--歩く--荒浜中学校 5 参加 3年1組 男19名 女18名 3年2組 男21名 女17名 計75名 6 引率 学年主任 阿部 哲男 1組担任 佐藤 俊隆 2組担任 佐々木 勝 実務学級担任 久保田文子 応援2年担任 浅川 光喜 7 行動時程 学校集合 4:50 学校出発 5:00=バス=栗生着6:00 歩行開始 6:30 昼食休憩(舘矢間小学校)12:00~12:30 歩行再開 ―東根小学校着16:00 学校到着 21:00
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8 経費 1000円 |
6 人生初の50kmへの挑戦-自分との戦いはやがて感動に変わる
(1) 絶好のウォーキング日和
「50kmを歩く会」の当日、8月2日は夏の盛りにしてはさわやかな風が吹き渡る、絶好のウォーキング日和だったように記憶しています。途中休憩の丸森町立舘矢間小学校と角田市立東根小学校では、お借りした体育館でマットに寝っ転がったり、跳び箱にまたがったりしながら、思い思いに休憩をとり、談笑したことを思い出します。
(2) 50kmの真骨頂-40km過ぎのドラマ
この辺りまでは皆まだまだ余裕しゃくしゃくという感じです。なだらかな坂道を登り切って割山峠を越え、亘理町に入った辺りから様相は一変します。蓄積された疲労が全身に覆いかぶさってきます。足の裏やかかと、脚の痛みが尋常ではありません。痛みできしむ脚を励ましながら、一歩一歩足を踏み出すことで精一杯です。互いに言葉を交わす気力もどこかに飛んでいってしまったかのようです。ただひたすらに、黙々と、足を運びます。気力とプライドだけが頼りです。
常磐線のこ線橋を越え、遠く荒浜の灯が見えてきます。
誰かが友だちに肩を貸し、誰かの手を引き、声を掛け、励まし合って、限界を超えていきます。40km過ぎの本当のドラマの始まりです。
(3) 地域の皆さんに支えられて
荒浜の街並みに入ると、地域の方々が沿道に出て、「それもう少し」「やれ頑張れ」と生徒一人一人の背中を押してくれます。子どもたちの目に再び光が宿り、気力がよみがえってきます。
そして、大歓声の中、感動のゴール。やった!自分の足で歩き通せた!友だちと励まし合いながら、50kmを歩き切ったんだ!達成感と充実感で、自然に笑顔がこぼれます。
50kmという気の遠くなるような道のりを前にすると、生徒や教師という立場の違いなどはきれいに霧消します。あるのは、一人の人間として、それぞれが自分の限界に挑戦し、やり切ったという達成感です。みんなで取り組んだからこそ、試練を乗り越えられたという一体感と、支えてくれた方々に対する感謝の気持ちです。
(4) 「50kmを歩く会」-子どもたちの思い
人生初の30km、50kmは、思春期真っ只中の子どもたちにどんな思いを残したのでしょうか。子どもたちの『卒業文集』の記述から振り返ってみましょう。
● 3年間を振り返って (T・A)
中学校に入学したのは3年前、もう卒業なんて早すぎるよね。3年間は、あっという間だったけれど、3年生になってからの1年間は、私にとってとても充実していたと思います。部活、そしていろいろな行事が私たち中心だったからかな。
2年の夏休みに初めて30kmを歩いたこと。3年の夏休みに梁川からの50kmを歩きとおせたことなどは、忘れられない思い出の一つです。
秋の遠足も奥新川まで行って野外炊飯をしました。文化祭も仮装を取り入れて、二日かけてやりました。今では、3年間の中学校生活全部がよい思い出です。
幼稚園からずうっと一緒だったみんなと別れるのがつらいです。先生もみんなも元気でね。
● To 3年1組のみんな (K・Y)
もう、卒業ですね。3年間ふり返って見るといろいろありました。
1年生の時、先輩に気をつかってびくびくしたり、2年生の時は30kmという距離を歩いたりしたこと。3年生の修学旅行、50km、合唱コンクールの失敗、文化祭の仮装、フォークダンスなど、数えきれないくらいあります。
これからは別々になるけど、みんなのこと忘れません。先生たちのことも。みんなといると楽しかったし、何でもできた。いい思い出ばかりです。これも先生とみんなのおかげです。
● 卒業を前に思う (S・Y)
たんたんと過ごした3年間ももう終わり。
中学校といえば初めての事ばかり。文化祭などの行事。加えて、30km、50kmを歩くこととか、まるで「未体験ゾーン」。
だけど、その中学校ともお別れ。実感わかないけど、たぶん卒業!? この調子で卒業式、泣けるかな……。
『阿部先生への便り』(2002)からも、子どもたちの思いをいくつか拾ってみましょう。
● また一緒に歩きたい (T・Y)
阿部哲男先生、また、一緒に50km歩きたいと思っているのは私だけでしょうか?
タバコの吸い過ぎが心配なのは私だけでしょうか?
また先生の歌う ≪ 岬めぐり ≫ が聞きたいのは私だけでしょうか?
● 阿部先生、頑張りましたね(K・A)
「お前らには負けない!」(阿部先生のつぶやき)
荒浜中学校で初めて断行した中学2年の時の30キロ歩行。中学3年の時の50キロ歩行。
阿部先生は足を引きずりながらの意地のゴールでしたね。
(5) 自信と充実感に輝いていた
「50kmを歩く会」を通して子どもたちが何を学び、どう感じたのかー少し長いですが、「亘理町立荒浜中学校第37回卒業式」(1984.3.16)の答辞から読み取っていきましょう。
第37回卒業式 答辞
(前略)
夏を思わせるような暑い日が続いた5月が過ぎ、6月がやってきました。郡中体連に向かって連日厳しい練習がどの部活でも続けられました。私たち76名の一人一人にとって、郡中体連優勝が大きな夢であり、2年3か月の部活動の真価が問われる試練のときだったのです。
思えば1年のときの部活動、それはあまりに単調でつらい毎日でした。球拾い、ただつっ立っての声出しなど、不満が募り疲れるばかりでした。体力づくりも苦しみの一つで、炎天下でのトレーニングや寒風吹きすさぶ中でのロードワークなどは、本当に苦しく、何度「やめよう」と思ったかわかりません。
2年生になって、やっと私たちが主役になる時がきました。秋の新人戦を弾みとして、「ここまで来てやめてたまるか!」「郡中体連では絶対優勝するぞ!」という気構えができ、部活にも一層熱が入っていきました。
3年生になり、いよいよ本番。これまで鍛えた体力と気力で精一杯戦い抜きました。この一瞬のためにどんなにかつらい練習を重ねてきたことか。私たちは2年3か月のすべてをかけて戦いました。
結果は、男子テニスの団体優勝。女子テニス、野球部、柔道部、ソフトボール部の準優勝。そして、バレーボール、バスケットボール、男女卓球もよく戦いました。さらに、個人戦でも数々の栄光を残すことができました。
栄光の影にはドラマがつきものです。部員5人で廃部寸前までいった部。3年生がわずか2人で苦労した部。逆に3年生の部員が多すぎてレギュラー選びに苦労した部など、表面には現れないもうひとつの隠されたドラマがどの部活にもあったことを忘れることはできません。
私たちが部活動を通じて得たものは少なくありません。勝つ喜び、一瞬にして負けたときの悔しさ。いやそれ以上に、努力することの大切さを学び、苦しい練習の中で友情や連帯感を培うことができました。私たちは、これらの部活動の中で学びとったものを一生の財産として大切にし、大きく育てていきたいと思っています。
季節は夏から秋へと移っていきました。海岸清掃、廃品回収、奥新川での秋の遠足。
そして、私たちの脳裏に強烈に焼きつけられた思い出に、夏休みに行った50キロの歩きがあります。50キロを競歩のように歩き通し5時過ぎに荒中にたどり着いた者。口もきけないくらいに疲れ果て、夜9時半頃に到着した者。足をひきずりながら一歩一歩前進する姿が、ポツン、ポツンと照明に浮かび上がるたびに、大きな拍手が湧き起こりました。最後まで歯を食いしばって完歩した者だけが知る自信と充実感に輝いていた顔、顔、顔。あの76名の澄んだ眼差しを、いつまでも絶やさずにいたいと思います。
(後略)
卒業生代表-高橋 良正
答辞の言葉どおりに、「50kmを歩く会」は「青春時代の強烈な思い出」として、彼ら彼女らの心に深く刻まれたに違いありません。
7 1984年(昭和59年)夏 切磋琢磨 各学年、野外体験活動に挑戦
2025年8月6日、山元町教育委員会に浅川光喜先生を訪ね、先生が勤務していた当時の「50kmを歩く会」や「街道を歩く会」についていろいろとお話を伺いました。
先生は、私と一緒に着任した昭和57年度から昭和62年度までの6年間と平成16年度から平成18年度までの3年間、計9年間、荒浜中学校に勤務されています。
いろいろ話が弾むうちに、1984年度のことが話題になりました。2年生が亘理町内夜間ハイクをしたことについては二人とも記憶に残っていました。浅川先生(当時3年担任)によれば、「担任していた3年生は丸森でキャンプをしました。確か1年生も何かしたはずです」とのこと。
帰宅してすぐに『1学年だよりーいさりび』を読み返しました。
ありました!『いさりび13号』に、「40km歩きについて」の見出しが躍っていました。
思い思いに野外活動を計画していた2年、3年に負けじと、1年生も「40km歩き」にチャレンジしていました。

恥ずかしいことに、その年1年担任をしていたにもかかわらず、「40km歩き」を行った記憶がまったくないのです。
この頃にはもうすでに、私の中では「歩く行事」は毎年やるものだという既定の事実になっていたのでしょう。そう思うことにして、自分を無理やり納得させるしかないようです。
1984年度には、それまでの「30kmを歩く会」、そして「50kmを歩く会」の成功に触発されたのでしょう、各学年が競うように野外活動に挑戦しています。
寒冷地手当が支給される8月1日前後に、1学年(主任:阿部哲男先生)は福島県を起点とする40km歩き、2学年(主任:平塚孝先生)は亘理町内を一晩かけて巡る夜間ハイク、3学年(主任:江畑子朗先生)は丸森不動尊公園での1泊キャンプ旅行に、それぞれ挑戦しました。
8 1984年夏 1年 40kmを歩く会
「40kmを歩く会」の詳細は、1984年7月18日に発行された『1学年だよりーいさりび13号』に、【40km歩きについて】として、掲載されています。
1 目的
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⑧ 用便の必要を感じたり体調の悪化を感じたりした場合は、我慢せず、先生に必ず連絡すること。 |
9 1984年秋 生徒の力で創り上げた荒中祭
1984年度荒中祭
● 期 日 11月27日(土)、28日(日)
● テーマ HAND in HAND
● スローガン ぼくらの力で!
● 企画
ア 前夜祭(カラオケ大会)
イ 学級企画 a 演劇 b 教室展示 c ジャンボ絵画 d 仮装行列・ショー
ウ 後夜祭
※ バザー / ガラクタ市
● ねらい
① 文化祭という大きな目標に向かって集中して活動する中で、成就感、充実感を味わわせる。
② 「創る文化」に触れさせる。
③ 協力性・連帯感を強める場にする。
④ 生徒が自分の可能性を発見し、また教師が引き出していく場にする。
の4つの実現を目指して、<一人一役>を絶対条件として準備を進める。
● 組織図

● 自主自立の組織-文化祭実行委員会
文化祭実行委員会は、生徒会役員と各学級2名の実行委員で構成され、1984年度は計23回開催されました。文化祭準備委員会の助言を受けながらも、文化祭の原案作成や各学級との連絡・調整、執行・運営などを中心的に担い、スローガンが示す通り、<自分たちの力で>荒中祭を創りあげました。
● 教室展示を巡る学級と実行委員会の攻防
この年、2年3組の教室展示部門は、「おばけ屋敷」をしたいという希望を当初から提出していました。暗幕で教室を暗くして、中を細かく仕切っておどろおどろしい趣向をこらせば、お客さんがたくさん来るだろうという、安直な発想に基づいていたのです。
実行委員会は、「教室展示の条件」(①2週間の活動期間を十分に活用すること、②安全面に留意したもの、等々)に照らして、2年3組の計画に甘さがあることを指摘し、改善を求めました。
2年3組の担当者(男子4名、女子7名)と実行委員会との間の意見調整は、8日間に渡りました。3組の担当者は、実行委員会のアドバイスを受けながら、安全上の課題と汚損の危険性に配慮して暗幕の使用を諦め、段ボールで代替する作戦に切り替えるとともに、教室内部の詳細設計図の作成までやり切り、本格的な製作に着手しました。
実行委員会の厳しい要求が、「絶対に完成させてやる」という部門担当者の結束を強固にし、プラスαの力を引き出していきました。彼ら彼女らの渾身の努力と創意工夫は「教室展示部門-最優秀賞」となって見事に結実しました。
● フォークダンスを巡る実行委員会の決断
後夜祭のプログラムの花形は、やはりフォークダンスです。この年は、各学年が他学年とも踊れるようにという配慮から、学年の1組が内側の円、2・3組が外側の円を作るという隊形で行うことが実行委員会で話し合われ、決定されました。
練習第1日目。整列から隊形づくり、そしてダンスの練習まで、生徒たちの動きは鈍く、後味の悪い練習となりました。
早速夕方の実行委員会で、3年生から隊形の変更について要望が提出されます。「3年が内側の円を作り、その外側に1・2年が円を作る隊形にしてほしい」と。練習がうまくいかなかったのは、実行委員会で決定された案に対する不満が大きかったからだというのです。
「ダンスの隊形と練習への取り組み方は別問題ではないか」「実行委員会の決定を覆して、3年の各学級の要望を認めるのか」、熱い討論は続きます。1時間。3年生と踊りたい1年も遠慮がちに意見を発表します。そして、2時間。3年生の実行委員がついに決断します。
「明日の練習は、整列から退場まで準備や指揮の一切を私たちの手でやります。3年の要望を受け入れ、隊形を変更します。」
次の日の練習は、前日とは比較にならぬほど秩序だったすばらしいものになりました。
「自分たちで考え、自分たちで決断し、実行する」、自治の力を改めて強く感じた瞬間でした。
以上述べたような活動の積み重ねによって,1984年度の文化祭は更に質的に充実し,盛り上がりのあるものになりました。
①分かる授業の創造、②各種行事の充実、③部活動の活性化を柱とした学校再生の取組は、このような成果を一つ一つ積み上げながら、生徒の姿を、学校の姿を確実に変えていきました。
そのような変化は、保護者や地域の学校に寄せる信頼や期待となって表れていきました。
10 1985年 そして、学年行事「50kmを歩く会」は 全校行事へ
(1) 「歩く会」のよさが保護者の心を捉えた
1982年から3年間、学年行事として行ってきた「歩く行事」は、多くの保護者の皆さんの温かい協力のおかげで、無事成功を収めてきました。
保護者の皆さんは、子どもたちと一緒に歩きながら、あるいは休憩所でサポートしながら、行事の成功と子どもたちの成長を見守ってきました。
和やかに談笑しながら歩く姿、痛みをこらえて黙々と歩みを進める健気な姿、互いに励まし合い必死にゴールを目指す子どもたちの神々しいまでの姿、そして、体育館に足を踏み入れたときの何とも言えない笑顔など、子どもたちのその時々の姿を間近に見ながら、この行事の意義や価値を保護者の立場から再確認していたのではないかと思います。
「歩く会」を巡る保護者の側の体験の蓄積が、このような価値ある行事を学年行事にしておくのはもったいない、どうせやるなら全校行事としてやってはどうか、という提案につながっていったのではないかと思います。
(2) 学年行事にしておくのはもったいない
このへんの経緯について、浅川光喜先生は次のように語っています。
2年目には距離を50kmに延ばし、福島県の梁川町から荒浜まで歩きました。そして、「歩く会」は回を重ねるにつれて、そんな良い行事ならば学年でなく全校行事でと言う声が盛り上がってきて、学校行事に格上げされて発展していきました。
それは、阿部哲男先生のひとつの行事にかける情熱の現れであり、行事を通して達成感を味わわせ、生徒たちに自信を持たせ心豊かな生徒を育てていくという、強い心意気があったからだと思います。今でも続いている伝統行事の創生期に私も在職していたことうれしく思っています。
(『阿部先生への手紙』)
その後も学年行事として行っていましたが、3、4年目頃からPTAのみなさんからしてみると、そういう良い行事を学年だけの行事にしておくのはもったいないという気持ちもあったようです。それで教育計画の中に入れて全校で歩け歩けをやりましょうということになりました。
昭和58年から50km歩きを始めたと思います。確か、福島県の梁川からだったんじゃないかと思います。
学年行事として始まったときから保護者の皆さんもすごく協力的でしたよ。それが、全校行事になってから協力体制がどんどん洗練されていっていったんでしょうね。
(『50kmを歩く会-伝統が生まれた日』)
11 1985年秋 「第1回50kmを歩く会」
荒浜中学校で初めての全校生徒が参加した「50kmを歩く会」は、どのように行われたのでしょうか。
ふたたび、『50kmを歩く会-伝統が生まれた日』の中の浅川先生の言葉から引用します。
(一部編集)
(1) 雷雨にも負けず
昭和60年から全校生徒で歩き始めました。その年は梁川から丸森を通って歩いたと思います。
その時に30キロ過ぎたあたりで雷雨に遭ったんです。角田橋から東根橋に向かう土手を歩いている途中のことでした。避難するところもなく、すごく危なかったんです。保護者の方に車を出してもらって、生徒たちに「乗れ!」って指示しました。どこかのバスも出してもらったと思います。とにかく先生方の車や地域の方の車に乗せてもらって避難したんですが、それでも言うこと聞かないで「最後まで歩くんだ!」って、車に乗らない方法を探していた子どもいましたね。
(2) 地域の人たちがランタンで出迎え
「50kmを歩く会」の日は、朝4時くらいに荒浜中学校に集合します。バスでスタート地点の梁川に6時くらいに到着して、準備運動をしてから出発します。
1時間4kmのペースで歩いても10時間で40km。途中休憩を含めると、単純計算しても12時間位では帰って来れないのが50kmなんですよ。最後尾が学校に到着したのが夜の10時くらいという年もありました。
子どもたちが荒浜に着くころ、地域の人たちが道路脇にランタンというか灯籠を灯して子どもたちを出迎えてくれるんです。ありがたいと思いました。地域の人たちが軒先で待っていて、拍手で迎えてくれるんですよ、「がんばれ~!」って。
(3) 最後は自分自身との戦い
私自身もそうなんですけど、最後の4kmを1時間なんかでは歩けないんです。もう足が痛くて歩幅も狭くなりゆっくりになってしまうんです。太っている子なんかは股ずれがおきたり足にマメができたりして、本当によちよち歩きになっていたしたね。だから時間がかかりましたね。
歩いていて思ったことは、普段筋肉質で短距離が得意な子とか、ガキ大将みたいに威張っている体格の良い子どもとか、そういう子どもよりも、わりと華奢なひょろひょろした子のほうが歩く会では強いんですよ。不思議な人間模様というか、会話も垣間見ることができて、面白かったですね。
(4) 互いに支え、支えられて
他にも、荒浜に向かって歩いているのに、逆方向に向かっていく子どもがいてね、「〇〇ちゃんが具合悪いんだけど、救護車が近くにいないから、走って呼んできます!」なんて言って、走っていく子たちもいましたね。自然とそういうことができていたんですね。
最初のうちはヘラヘラして友だちにいたずらしたり、じゃれ合ったりする子もいたんですけど、だんだん疲れてそういう気力も会話もなくなるんですよね。そんな中で互いに声をかけ合ったりする場面が出てくるんですね。
(5) ただひたすらに歩く行事の魅力
辛そうに歩いている子どもに、「救護車に乗ったら」と声をかけても、全然乗らないんです。男子も女子も、子どもなりの意地というか、なんとしても完歩してやるという気持ちが強かったと思います。「もう無理、やめる」なんて言うそんな雰囲気は感じたこともないですし、なかったと思いますね。そういうところに教育的な価値もあったんだと思います。
ただひたすら歩くだけで、面白いことが何もないですからね。そういう単純なことを子どもたちにも経験させるということを阿部先生は狙っていたんじゃないかと思います。その趣旨に、先生方も賛同したし、PTAの方々も賛同して、ずっと長く行事が続いているんじゃないかと思います。
浅川光喜先生は、全校の生徒が参加して行う「50kmを歩く会」の全容とその魅力をこのように振り返っています。
40kmを越えてからの苦しさと裏腹に、楽しい思い出として心に深く刻まれていくのはなぜでしょう。不思議です。
おわりに
2025年7月、猛暑の只中にこの作業に取り組み始めてから、ほぼ一カ月。40年以上前の資料に目を通しながら、「そうだったなぁ」「こんなこともあったなぁ」と、懐かしい思い出に浸りながら、楽しく作業を進めることができました。
浅川光喜先生からいただいた冊子-『50kmを歩く会-伝統が生まれた日』も、私の記憶のすき間を埋めるに余りある働きをしてくれました。ありがとうございました。
本稿を通して、「50kmを歩く会」に込められた思い、「50kmを歩く会」を通して生徒が取り戻した自信と誇り、「50kmを歩く会」が培ってきた地域の絆などなど、思い思いに読み取っていただければ幸いに存じます。
「50kmを歩く会」についての興味はまだまだ尽きません。その秘密と魅力を探る旅は、いましばらく続きそうです。
亘理町立荒浜中学校 「50kmを歩く会」・「街道を歩く会」の44年間の歩み



